アブドゥッラティーフ
この項目では、ティムール朝の君主について説明しています。ヤルカンド・ハン国のアブドゥッラティーフについては「アブドゥッラティーフ (ヤルカンド・ハン国)」をご覧ください。 |
アブドゥッラティーフ بدالطیف | |
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ティムール朝 アミール | |
在位 | 1449年 - 1450年5月 |
出生 | 1420年頃? |
死去 | 1450年5月9日 |
配偶者 | シャー・スルタン・アーガー |
子女 | アブドゥル・ラッザーク アフマド ムハンマド・バーキール ムハンマド・ジューキー |
王朝 | ティムール朝 |
父親 | ウルグ・ベク |
母親 | ルカイヤ・ハトゥン・アルラト |
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アブドゥッラティーフ(Abd al-Latif ibn Muhammad Taraghay Ulughbek, 1420年頃? - 1450年5月9日)は、ティムール朝の第5代君主(在位:1449年 - 1450年5月)。
生涯
第4代の君主ウルグ・ベクと、彼の側室ルカイヤ・ハトゥン・アルラトの子として生まれる。
1447年にウルグ・ベクが即位した後、国内に多くの王位請求者が現れる。アブドゥッラティーフの従兄弟であるアラー・ウッダウラも王位請求者の一人であり、彼はガウハール・シャード(シャー・ルフの妃。アブドゥッラティーフの祖母にあたる)の支援を受けて反乱を起こした[1][2]。この時にアブドゥッラティーフはアラー・ウッダウラに捕らえられるが、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラによる和平交渉の際に釈放された[1]。交渉の際にアラー・ウッダウラに課された他の条件は履行されず、ウルグ・ベクは再戦の後にアラー・ウッダウラを破り、彼をマシュハドへと追いやった[1]。ウルグ・ベクがマシュハドのアラー・ウッダウラに勝利した時、彼は別に軍を率いてヘラートを占領した[2]。
しかし、ウルグ・ベクが国政の中心をヘラートではなくサマルカンドに据えたことを不服として、駐屯先のバルフで反乱を起こし[2]、アブドゥッラティーフは父との戦いに勝利する。一度はウルグ・ベクを助命し、メッカ巡礼(ハッジ)の願い出に許可を出すが、父が出発した後に助命を撤回して死刑の判決を下し、ペルシア人奴隷を遣わして父を殺害した[2]。
即位後はスーフィズムの聖者、修行僧を保護し、私生活においても敬虔なムスリムであったため、父とは異なりイスラームの指導者層から支持を受けた[3]。しかし、将校の多くは彼に服しておらず[4]、1450年5月9日にウルグ・ベクの忠僕によって暗殺された[1]。
宗室
父母
- 父 ウルグ・ベク
- 母 ルカイヤ・ハトゥン・アルラト
后妃
- シャー・スルタン・アーガー
- 氏名不詳の妃
子
- アブドゥル・ラッザーク
- アフマド
- ムハンマド・バーキール
- ムハンマド・ジューキー
脚注
- ^ a b c d デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、231頁
- ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、87頁
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、90頁
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、90-91頁
参考文献
- デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)
- フランシス・ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』(小名康之監修, 創元社, 2009年5月)
ティムール朝第5代君主 | |
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ティムール朝 | |
サマルカンド政権 | スルタン・アフマド1469-1494 / スルタン・マフムード1494-1495 / バイスングル1495-1496 / スルタン・アリー1496 / バイスングル(復位)1497 / バーブル1497-1498 / スルタン・アリー(復位)1498-1500 |
ヘラート政権 | フサイン・バイカラ1469-1506 / バディー・ウッザマーン、ムザッファル・フサイン1506-1507 |