ヘンリー5世 (イングランド王)

曖昧さ回避 この項目では、歴史上の人物について説明しています。シェイクスピアヘンリアドの登場人物については「ハル王子」をご覧ください。
ヘンリー5世
Henry V
イングランド国王
在位 1413年3月21日 - 1422年8月31日
戴冠式 1413年4月9日

出生 1387年9月16日
ウェールズの旗 ウェールズモンマスモンマス城
死去 (1422-08-31) 1422年8月31日(34歳没)
フランスパリヴァンセンヌの森
埋葬 1422年11月7日
イングランドの旗 イングランドロンドンウェストミンスター寺院
配偶者 キャサリン・オブ・ヴァロワ
子女 ヘンリー6世
王朝 ランカスター朝
父親 ヘンリー4世
母親 メアリー・ド・ブーン
サイン
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ヘンリー5世Henry V, 1387年9月16日 - 1422年8月31日[1])は、ランカスター朝イングランド(在位:1413年 - 1422年)。ヘンリー4世と最初の妻メアリー・ド・ブーンの子。クラレンス公トマスベッドフォード公ジョングロスター公ハンフリーの兄。ヘンリー6世の父。

若年の時から戦いに参加し、父を助けてランカスター朝成立期の国内平定に貢献した。

1413年3月20日に即位すると積極的な大陸経営を目指し、1415年フランス国内のブルゴーニュ派アルマニャック派の内紛に乗じて休戦中であった百年戦争を再開して、同年10月25日アジャンクールの戦いで大勝し、フランス軍主力を壊滅させた。

1420年6月2日フランス王シャルル6世の娘キャサリン(カトリーヌ)と結婚、トロワ条約を締結して自らのフランス王位継承権を認めさせ、ランカスター朝の絶頂期を築いたが、2年後に崩御した。

生涯

若き日のヘンリー

ヘンリー5世はウェールズモンマスにあるモンマス城のゲートハウスで生まれた。父はヘンリー・オブ・ボリングブルックこと後のヘンリー4世、母は第7代ヘレフォード伯(英語版)ハンフリー・ド・ブーン(英語版)の次女で当時16歳のメアリーである。彼が生まれた時期のイングランドは父の従兄・リチャード2世の統治下にあり、王位継承からはかなり離れていた。そのため出生日さえはっきり分かっておらず、1386年1387年の8月9日か9月16日の説が有力とされている。

幼少期はオックスフォード大学クイーンズ・カレッジで勉強したが、1398年、12歳の時に父がフランスに追放されたため短期で終わる。既に母も他界していたヘンリーを国王リチャード2世は引き取り、優遇した。

再起を図る父の率いるランカスター派が1399年にイングランドに上陸すると、リチャード2世は捕らえられてしまう。こうして父がヘンリー4世として即位し、彼もプリンス・オブ・ウェールズに叙せられる。そして同年11月10日にランカスター公に叙された[注 1]

数年の後、彼はイングランド軍の一部の指揮を実際に執るようになった。1403年グリンドゥールの反乱に際しては自分の軍隊を率いてウェールズに向かい、さらにこの反乱に加担したヘンリー・パーシー(ホットスパー)に対しても、取って返して父の軍と合流し、シュルーズベリーの戦い(英語版)で顔に傷を負いつつも、打ち破った[注 2][2]

王子としての役割とヘンリー4世との対立

1408年まで、ヘンリーはオワイン・グリンドゥール(オウェイン・グレンダワー)によるウェールズの反乱の鎮圧に注力した。その後、父の健康状態の悪化によって次第に彼の政治的権威が高まってきた。1410年1月からは叔父にあたるヘンリー・ボーフォートとトマス・ボーフォート兄弟に助けられつつ、実質的な政権の支配者になった。

ヘンリーの政策は国内政策・対外政策ともに父と異なっていたため、1411年11月の御前会議に彼は呼ばれなかった。のみならず、翌1412年1月に評議会のメンバーが入れ替わり、ボーフォート派が更迭され代わりに父が信任する人物が入れられた。その中に弟のクラレンス公トマスもいたためヘンリーとクラレンス公の関係は一時悪化した。ボーフォート兄弟が父の退位を画策していた可能性はあるが、この親子が対立するのは政治方針のみであり、後に両者は和解している。そしてボーフォート兄弟に対立する勢力はヘンリーの中傷に躍起になった。

百年戦争期の当時のフランスでは国王シャルル6世は精神異常のため事実上政務を執ることが不可能な状態であり、ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて内戦状態にあったため、とても外敵からの自国の安全を保てる状態にはなかった。ヘンリー4世は大陸にあるアキテーヌの保持を第一に考え、外交は消極的で両派から援軍を持ちかけられても露骨な肩入れは避け、1411年10月にブルゴーニュ派の味方として2000人を派兵、1412年8月にアルマニャック派と手を組み4000人のイングランド軍を派遣したが、どちらも小規模ですぐ撤退したため戦局に影響を与えなかった。対するヘンリーは積極的にフランスへ介入するためブルゴーニュ派との関係を重視、内乱に付け込んで北フランスを征服することを目標にしていたため、これが父から遠ざけられる元となった。

1413年3月20日に父王が崩御すると、翌日にはヘンリーが王位を継承し、4月9日に戴冠式が行われた[3]

ヘンリー5世の内政

ヘンリー5世は全ての内政問題に直接関与し、そして次第に自身の影響力を高めていった。また、その即位当初から自らをイングランドという連合国家の長と位置付け、過去の国内対立を水に流す方針を明確にした。

まず父と対立したリチャード2世を再度丁重に埋葬し、リチャード2世が在位していた間の推定相続人であるマーチ伯エドマンド・モーティマーをお気に入りとして手元に置き、さらには爵位・領土を没収されて苦しんでいた貴族たちには爵位・領土を順次回復していった。ホットスパーの遺児ヘンリー・パーシーもノーサンバランド伯を継承した。

ヘンリー5世にとって最大の内政課題は、当時異端として迫害されていたロラード派の不満分子に対する対処であった。1414年1月にジョン・オールドカースルの反乱を未然に防いだヘンリー5世は内政基盤を堅固なものとした。1415年6月にサウサンプトンの陰謀事件(英語版)[注 3]を除いてはこれ以降の彼の統治期に大きな内政問題は発生していない。

また、政府公式文書での英語の使用を促進した。彼は350年前のノルマン・コンクエスト以来初めて、個人書簡に英語を使用した王であった[注 4][4]

外交とフランス遠征

フランスへの要求

内政問題が鎮静化したことで、ようやくヘンリー5世は外交問題に注力できるようになった[注 5]。最初にブルゴーニュ派、次にアルマニャック派から接触があり、それぞれ相手を倒すためイングランドの加勢を必要とし、ヘンリー5世に向けて婚姻関係と領地割譲を提案した。ヘンリー5世はアルマニャック派と交渉しつつ密かに政権から追われたブルゴーニュ派の首領であるブルゴーニュジャン1世(無怖公)にも近付き、ブルゴーニュ派から明確な回答は得られなかったが、アルマニャック派との交渉も平行線を辿った。

ヘンリー5世は

  • フランス政府が反乱を起こしたオワイン・グリンドゥールに援助していたことへの賠償
  • ブルゴーニュ派・アルマニャック派それぞれに支援を与えていたことへの代償

という理由で、領土割譲とフランス王位を要求した。これを拒否したアルマニャック派に対し、ヘンリー5世は長期休戦状態にあった百年戦争を再開し、フランス遠征を行った[5]

1415年の遠征

1415年8月11日にフランスに向けて出航したヘンリー5世のイングランド軍は、8月12日に北フランスに上陸し、アルフルール(英語版)(現セーヌ=マリティーム県)要塞を包囲し、9月22日にはこれを陥落した(アルフルール包囲戦(英語版))。予想以上に長引いた包囲戦で疾病・負傷者が増えたイングランド軍は、補給可能なカレー港に陸路移動を開始した。これを追撃しようとするアルマニャック派を中心とするフランス軍を10月25日のアジャンクールの戦いで撃破し、多くのフランス貴族を捕虜とした。ブルゴーニュ派からの攻撃はなくイングランド軍は11月に帰国、ロンドンで凱旋した。

アジャンクールの戦いでアルマニャック派の幹部は戦死するか捕虜となり、彼らは過酷に扱われ長期間イングランドに幽閉された。この中にオルレアン公シャルルとアルテュール・ド・リッシュモンなどがおり、ヘンリー5世が死ぬか、長い年月を経た末でなければ釈放されなかった。また、ヘンリー5世は継母(父の後妻)でリッシュモンの実母ジョーン・オブ・ナヴァールに対しても邪険に扱ったとされる[6][注 6]

外交と制海権

イギリス海峡の制海権を確固たるものにするためには、フランスだけでなく、フランスと同盟するヨーロッパ各国を海峡から締め出す必要があった。

アジャンクールの戦いの後、神聖ローマ皇帝ジギスムントはイングランドとフランスの和平調停のためヘンリー5世のもとを訪れた。ヘンリー5世のフランスに対する要求を緩和するように説得するためである。ヘンリー5世は皇帝を歓待し、ガーター勲章まで授与した。ジギスムントは返礼としてヘンリー5世をドラゴン騎士団に登録した。数ヶ月後の1416年8月15日、イングランドのフランスへの賠償請求権を認めたジギスムントはカンタベリー条約(英語版)を締結してイングランドを去った[7]

1417年の遠征

イングランド国王と神聖ローマ皇帝との間につながりができたことで、1417年教会大分裂の収束に道筋がつき、フランスと大陸諸勢力との分離が進んだ。これを好機として、アジャンクールの戦いの疲弊を癒したヘンリー5世は再び、さらに大規模な進攻作戦を開始した。

8月に始まったイングランドの征服活動でカーンなどノルマンディー地方の沿海部はまたたくまに占領され、ルーアンの町も1418年7月からパリから分断された状態で攻め立てられた。フランス政府はブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で機能していなかった。ヘンリー5世は巧みに両派を争わせつつ、9月にシェルブールを、1419年1月にルーアンを陥落させた。

抵抗したノルマンディーのフランス人は厳しく罰せられた。城壁からイングランド人捕虜の首をぶら下げたアラン・ブランシャールは瞬く間に処刑され、イングランド国王を破門したルーアンの司祭ロバート・ドゥ・リベットはイングランドに送られて5年間牢獄に入れられた。

8月、イングランド軍はパリ城外まで達した。ここに至って王太子シャルル(後のシャルル7世)とブルゴーニュ公ジャン無怖公はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を開始したが、9月10日の交渉の場で王太子の支持者が無怖公を暗殺した。そこで新ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)とブルゴーニュ派はヘンリー5世のイングランド軍と協同することにし、フランス王室も交えた6ヶ月の交渉の末1420年5月にトロワ条約が結ばれた。この条約の中で、ヘンリー5世がフランスの王位継承者・摂政となることが認められた。

そして6月2日、ヘンリー5世はシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)と結婚した。6月から7月にかけてモントロー(フランス語版)[注 7]の城に押し寄せ、陥落させた。さらに11月にはムランを占領し、ルーアンに滞在した後1421年2月にイングランドへ帰国した[8]

1421年の遠征と崩御

イングランド滞在から4ヶ月後の6月10日、ヘンリー5世は自身最後の遠征のためフランスに向けて出航した。これは南フランスに抵抗の拠点を移した王太子とアルマニャック派の勢力があなどれないからで、フランス駐在のイングランド軍の指揮官だった弟のクラレンス公が3月22日ボージェの戦いで討ち取られていたため報復の意味もあった。7月から8月にかけてヘンリー5世の軍はドルーを制圧し、シャルトルで同盟軍を支援した。その年の10月にはモーを包囲し、7ヶ月もの長期間包囲した末の翌1422年5月2日に攻略した(モー包囲戦)。

ところが同年8月31日、ヘンリー5世はパリ郊外のヴァンセンヌの森で、モー包囲戦の際に感染していた赤痢にて崩御した。34歳であった。わずか数か月前に、息子ヘンリー6世の名前で弟のベッドフォード公ジョンをフランスの摂政に任命したばかりであった。ヘンリー5世としてはトロワ条約の締結の時、病弱な義父シャルル6世よりは長生きする自信があったため「次のフランス王」と取り決めたが、結局ほんの2ヶ月ではあるがシャルル6世の方が長生きすることになった。

キャサリンはヘンリー5世の亡骸をロンドンに運び、11月7日ウェストミンスター寺院に埋葬した。ヘンリー5世の崩御後、キャサリンは1437年に死ぬまでウェールズ人の侍従オウエン・テューダーと密接な生活を送ったが(密かに結婚したかも知れない)、彼らの孫こそが後にテューダー朝を開いたヘンリー7世である[9]

シェイクスピア史劇

シェイクスピアの史劇『ヘンリー五世』の主人公として取り上げられ、『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』でもハル王子の名前で重要な役回りで登場する。

映画

テレビ映画

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
プランタジネット朝
エドワード3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード黒太子ライオネル・オブ・アントワープジョン・オブ・ゴーントエドマンド・オブ・ラングリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(プランタジネット朝)
リチャード2世
 
 
ヘンリー4世ジョン・ボーフォート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨーク朝
ヘンリー6世
 
 
 
 
テューダー朝
 


注釈

  1. ^ 他にもコーンウォール公チェスター伯アキテーヌ公に叙された。実際に管理を始めたのは1400年10月からである。
  2. ^ 16歳のヘンリーの顔に矢が当たり、瀕死の重傷を負ったのはこの時の事である。通常の兵士であれば見放されてしまうような傷であったが、ヘンリーは最高の治療を受け、数日の後にはそれ以上傷が広がらないような形で矢尻を抜くことに成功した。ヘンリーの顔には永久に消えない傷が残ったが、何とか一命を取り留めることはできた。ロイル、P98 - P99。
  3. ^ サウサンプトンの陰謀事件ライオネル・オブ・アントワープの曾孫に当たるマーチ伯を王位につけようと、義兄のケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラらが企てたが、当のマーチ伯がヘンリー5世に通報したため失敗に終わった事件。ロイル、P126 - P127。
  4. ^ ノルマン朝プランタジネット朝のイングランド王は元来フランスの地方領主であり、フランス人としての意識が強い君主が多かったため、それまではフランス語を使用していた。佐藤、P139 - P141、君塚、P163。
  5. ^ 次の世代の歴史家はヘンリー5世が外交問題に着手した理由を「国内宗教政治家の目を国内問題から大陸問題にそらさせるため」としているが、この説には根拠がないと思われる。
  6. ^ しかしこれには異説もあり、ヘンリー5世は反対に継母を敬い、年金を提供したり留守中のイングランドを任せていたという。邪険にしていたのは弟のベッドフォード公の方で、1419年にジョーンをヘンリー5世呪詛の罪で捕らえたが、ヘンリー5世の命令で釈放されたジョーンは1437年に亡くなるまで王家に厚遇された。石井、P246 - P248。
  7. ^ モントロー(Montereau):現在のロワレ県の自治体

脚注

  1. ^ Henry V king of England Encyclopædia Britannica
  2. ^ 森、P200 - P202、君塚、P157 - P158。
  3. ^ 佐藤、P127、城戸、P106 - P110、ロイル、P105 - P113、P116 - P119、君塚、P157 - P158。
  4. ^ 森、P202 - P206、ロイル、P121 - P128、君塚、P159。
  5. ^ 森、P206 - P207、佐藤、P127 - P128、城戸、P113 - P120、ロイル、P128 - P130、君塚、P159 - P160。
  6. ^ 森、P207 - P209、エチュヴェリー、P87 - P97、佐藤、P128 - P130、城戸、P121 - P122、ロイル、P130 - P137、君塚、P160 - P161。
  7. ^ 城戸、P122 - P123、ロイル、P139 - P142。
  8. ^ 森、P209、エチュヴェリー、P103 - P105、P109 - P113、P115 - P119、佐藤、P130 - P132、P136 - P138、城戸、P123 - P139、ロイル、P142 - P149、君塚、P161 - P163。
  9. ^ 森、P209 - P211、エチュヴェリー、P120 - P123、佐藤、P142 - P144、ロイル、P149 - P156、君塚、P163。

参考文献

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、ヘンリー5世 (イングランド王)に関連するメディアがあります。
イングランド王国旗イングランド国王(1413年-1422年)イングランド王国章
ウェセックス朝
デーン朝
  • スヴェン1013-1014
ウェセックス朝
  • エゼルレッド2世1014-1016
  • エドマンド2世1016
デーン朝
ウェセックス朝
ノルマン朝
  • ウィリアム1世1066-1087
  • ウィリアム2世1087-1100
  • ヘンリー1世1100-1135
  • マティルダ(イングランド人の女君主)1141-1148
ブロワ朝
  • スティーヴン1135-1154
プランタジネット朝
  • ヘンリー2世1154-1189
  • 若ヘンリー(共同王)1170-1183
  • リチャード1世1189-1199
  • ジョン1199-1216
  • ヘンリー3世1216-1272
  • エドワード1世1272-1307
  • エドワード2世1307-1327
  • エドワード3世1327-1377
  • リチャード2世1377-1399
ランカスター朝
  • ヘンリー4世1399-1413
  • ヘンリー5世1413-1422
  • ヘンリー6世1422-1461
ヨーク朝
  • エドワード4世1461-1470
ランカスター朝
  • ヘンリー6世(復位)1470-1471
ヨーク朝
  • エドワード4世(復位)1471-1483
  • エドワード5世1483
  • リチャード3世1483-1485
テューダー朝
  • ヘンリー7世1485-1509
  • ヘンリー8世1509-1547
  • エドワード6世1547-1553
  • ジェーン・グレイ1553
  • メアリー1世1553-1558
  • フィリップ(共同王)1554-1558
  • エリザベス1世1558-1603
ステュアート朝
  • ジェームズ1世1603-1625
  • チャールズ1世1625-1649
  • チャールズ2世1660-1685
  • ジェームズ2世1685-1688
  • メアリー2世1689-1694
  • ウィリアム3世1689-1702
  • アン1702-1707
1707年スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国が成立、アンはグレートブリテン女王として1714年まで在位。
1603年までのイングランド君主1603年までのスコットランド君主
  • アルフレッド大王871-899
  • エドワード長兄王899-924
  • アゼルスタン924-939
  • エドマンド1世939-946
  • エドレッド946-955
  • エドウィ955-959
  • エドガー959-975
  • エドワード殉教王975-978
  • エゼルレッド2世978-1013
  • スヴェン1013-1014
  • エゼルレッド2世1014-1016
  • エドマンド2世1016
  • クヌート大王1016-1035
  • ハロルド1世1035-1040
  • ハーディカヌート1040-1042
  • エドワード懺悔王1042-1066
  • ハロルド2世1066
  • エドガー・アシリング (王位請求者)1066
  • ウィリアム1世1066-1087
  • ウィリアム2世1087-1100
  • ヘンリー1世1100-1135
  • マティルダ (イングランド人の女君主)1141-1148
  • スティーヴン1135-1154
  • ヘンリー2世1154-1189
  • 若ヘンリー (共同王)1170-1183
  • リチャード1世1189-1199
  • ジョン1199-1216
  • ヘンリー3世1216-1272
  • エドワード1世1272-1307
  • エドワード2世1307-1327
  • エドワード3世1327-1377
  • リチャード2世1377-1399
  • ヘンリー4世1399-1413
  • ヘンリー5世1413-1422
  • ヘンリー6世1422-1461
  • エドワード4世1461-1470
  • ヘンリー6世 (復位)1470-1471
  • エドワード4世 (復位)1471-1483
  • エドワード5世1483
  • リチャード3世1483-1485
  • ヘンリー7世1485-1509
  • ヘンリー8世1509-1547
  • エドワード6世1547-1553
  • ジェーン・グレイ1553
  • メアリー1世1553-1558及びフィリップ1554-1558(共同王)
  • エリザベス1世1558-1603
  • ケネス1世848-858
  • ドナルド1世(英語版)859-863
  • コンスタンティン1世(英語版)863-877
  • エイ(英語版)877-878
  • ギリック(英語版)878-889
  • ヨーカ(英語版)878-889
  • ドナルド2世889-900
  • コンスタンティン2世(英語版)900-942
  • マルカム1世(英語版)942-954
  • インダルフ(英語版)954-962
  • ダフ(英語版)962-967
  • カリン(英語版)967-971
  • ケネス2世(英語版)971-995
  • コンスタンティン3世(英語版)995-997
  • ケネス3世(英語版)997-1005
  • マルカム2世1005-1034
  • ダンカン1世1034-1040
  • マクベス1040-1057
  • ルーラッハ1057-1058
  • マルカム3世1058-1093
  • ドナルド3世1093-1094
  • ダンカン2世1094
  • ドナルド3世1094-1097
  • エドガー1097-1107
  • アレグザンダー1世1107-1124
  • デイヴィッド1世1124-1153
  • マルカム4世1153-1165
  • ウィリアム1世1165-1214
  • アレグザンダー2世1214-1249
  • アレグザンダー3世1249-1286
  • マーガレット1286-1290
  • ジョン・ベイリャル1292-1296
  • ロバート1世1306-1329
  • デイヴィッド2世1329-1371
  • エドワード・ベイリャル1332-1356
  • ロバート2世1371-1390
  • ロバート3世1390-1406
  • ジェームズ1世1406-1437
  • ジェームズ2世1437-1460
  • ジェームズ3世1460-1488
  • ジェームズ4世1488-1513
  • ジェームズ5世1513-1542
  • メアリー1世1542-1567
  • ジェームズ6世1567-1625
    • 1603年の王冠連合後のイングランド及びスコットランドの君主
  • ジェームズ1世及び6世1603-1625
  • チャールズ1世1625-1649
  • 護国卿政府 (オリバー・クロムウェル1653-1658リチャード・クロムウェル1658-1659)
  • チャールズ2世1660-1685
  • ジェームズ2世及び7世1685-1688
  • ウィリアム3世及び2世1689-1702及びメアリー2世1689-1694(共同王)
  • アン1702-1707
    • 1707年合同法後のイギリス君主
  • アン1707-1714
  • ジョージ1世1714-1727
  • ジョージ2世1727-1760
  • ジョージ3世1760-1820
  • ジョージ4世1820-1830
  • ウィリアム4世1830-1837
  • ヴィクトリア1837-1901
  • エドワード7世1901-1910
  • ジョージ5世1910-1936
  • エドワード8世1936
  • ジョージ6世1936-1952
  • エリザベス2世1952-2022
  • チャールズ3世2022-
  • イングランド王室
    先代
    ヘンリー4世
    イングランド国王
    アイルランド君主

    1413年 - 1422年
    次代
    ヘンリー6世
    先代
    エドマンド・モーティマー
    イングランド王位継承者
    1399年9月30日 - 1413年5月20日
    次代
    トマス・オブ・ランカスター
    フランスの爵位
    先代
    アンリ3世
    アキテーヌ公
    1399年 - 1422年
    次代
    アンリ5世
    イングランドの爵位
    空位
    最後の在位者
    リチャード2世
    プリンス・オブ・ウェールズ
    1399年 - 1413年
    空位
    次代の在位者
    エドワード・オブ・ウェストミンスター
    先代
    ヘンリー4世
    ランカスター公
    1399年 - 1413年
    次代
    -
    王位に統合
    名誉職
    先代
    サー・トマス・アーピンガム(英語版)
    五港長官(英語版)
    1409年 - 1412年
    次代
    第12代アランデル伯爵(英語版)
    1. ウィンストン・チャーチル
    2. イザムバード・キングダム・ブルネル
    3. ダイアナ
    4. チャールズ・ダーウィン
    5. ウィリアム・シェイクスピア
    6. アイザック・ニュートン
    7. エリザベス1世
    8. ジョン・レノン
    9. ホレーショ・ネルソン
    10. オリバー・クロムウェル
    11. アーネスト・シャクルトン
    12. ジェームズ・クック
    13. ロバート・ベーデン=パウエル
    14. アルフレッド大王
    15. アーサー・ウェルズリー
    16. マーガレット・サッチャー
    17. マイケル・クロフォード
    18. ヴィクトリア
    19. ポール・マッカートニー
    20. アレクサンダー・フレミング
    21. アラン・チューリング
    22. マイケル・ファラデー
    23. オワイン・グリンドゥール
    24. エリザベス2世
    25. スティーヴン・ホーキング
    26. ウィリアム・ティンダル
    27. エメリン・パンクハースト
    28. ウィリアム・ウィルバーフォース
    29. デヴィッド・ボウイ
    30. ガイ・フォークス
    31. レナード・チェシャー
    32. エリック・モーカム(英語版)
    33. デビッド・ベッカム
    34. トマス・ペイン
    35. ブーディカ
    36. スティーヴ・レッドグレーヴ
    37. トマス・モア
    38. ウィリアム・ブレイク
    39. ジョン・ハリソン
    40. ヘンリー8世
    41. チャールズ・ディケンズ
    42. フランク・ホイットル
    43. ジョン・ピール
    44. ジョン・ロジー・ベアード
    45. アナイリン・ベヴァン
    46. ボーイ・ジョージ
    47. ダグラス・バーダー
    48. ウィリアム・ウォレス
    49. フランシス・ドレーク
    50. ジョン・ウェスレー
    51. アーサー王
    52. フローレンス・ナイチンゲール
    53. トーマス・エドワード・ロレンス
    54. ロバート・スコット
    55. イーノック・パウエル(英語版)
    56. クリフ・リチャード
    57. アレクサンダー・グラハム・ベル
    58. フレディ・マーキュリー
    59. ジュリー・アンドリュース
    60. エドワード・エルガー
    61. エリザベス王太后
    62. ジョージ・ハリスン
    63. デイビッド・アッテンボロー
    64. ジェームズ・コノリー
    65. ジョージ・スチーブンソン
    66. チャールズ・チャップリン
    67. トニー・ブレア
    68. ウィリアム・キャクストン
    69. ボビー・ムーア
    70. ジェイン・オースティン
    71. ウィリアム・ブース
    72. ヘンリー5世
    73. アレイスター・クロウリー
    74. ロバート1世
    75. ボブ・ゲルドフ
    76. 無名戦士
    77. ロビー・ウィリアムズ
    78. エドワード・ジェンナー
    79. デビッド・ロイド・ジョージ
    80. チャールズ・バベッジ
    81. ジェフリー・チョーサー
    82. リチャード3世
    83. J・K・ローリング
    84. ジェームズ・ワット
    85. リチャード・ブランソン
    86. ボノ
    87. ジョン・ライドン
    88. バーナード・モントゴメリー
    89. ドナルド・キャンベル(英語版)
    90. ヘンリー2世
    91. ジェームズ・クラーク・マクスウェル
    92. J・R・R・トールキン
    93. ウォルター・ローリー
    94. エドワード1世
    95. バーンズ・ウォリス
    96. リチャード・バートン
    97. トニー・ベン
    98. デイヴィッド・リヴィングストン
    99. ティム・バーナーズ=リー
    100. マリー・ストープス
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