劉子勛

劉子勛
皇帝
王朝
在位期間 泰始2年1月7日 - 8月24日
466年2月7日 - 9月19日
都城 尋陽
姓・諱 劉子勛
孝徳
生年 孝建3年(456年
没年 泰始2年8月24日
466年9月19日
孝武帝
陳淑媛
陵墓 廬山
年号 義嘉 : 466年2月 - 9月

劉 子勛(りゅう しくん)は、南朝宋の皇族

生涯

孝武帝と陳淑媛(中国語版)の間の三男[1] として生まれた。大明4年(460年)1月、晋安王に封じられた。8月、都督南兗州徐州之東海諸軍事・征虜将軍・南兗州刺史に任じられた。大明7年(463年)1月、都督江州南豫州之晋熙新蔡郢州之西陽三郡諸軍事・前将軍・江州刺史に転じた。大明8年(464年)1月、使持節・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事・鎮軍将軍・寧蛮校尉・雍州刺史となった。孝武帝が崩じた後の8月、長兄の前廃帝劉子業から再び江州刺史に任じられた。眼病を患っていた劉子勛は孝武帝には愛されなかった。景和元年(465年)、使持節を加えられた。

ときに前廃帝が多くの大臣を殺害しており、何邁(中国語版)は兵変を起こして劉子勛を擁立する計画を立てた。しかしその計画は漏れ、前廃帝が宿衛の兵を自ら率いて何邁を誅殺した。続いて前廃帝は左右侍従の朱景雲を遣わし、毒を送って劉子勛を自害させようとした[1]。しかし朱景雲は湓口まで進むとあえてそこに留まり、江州長史の鄧琬(中国語版)に知らせた。鄧琬らは前廃帝の廃立を名目に劉子勛を奉じて兵を起こした。

叔父の湘東王劉彧が前廃帝を殺害して建康を掌握する(明帝)と、劉子勛に車騎将軍・開府儀同三司の位を与えた。しかし鄧琬らはその命を拒否し、劉彧の即位に反対する檄を飛ばした。泰始2年(466年)1月7日、鄧琬らに擁立された劉子勛は尋陽で帝を称し、年号を義嘉とし、百官を置いた。豫州刺史殷琰(中国語版)・青州刺史沈文秀・徐州刺史薛安都冀州刺史崔道固湘州行事何慧文・広州刺史袁曇遠・益州刺史蕭恵開梁州刺史柳元怙らが呼応して起兵した。3月、劉子勛の朝廷は、左衛将軍の孫沖之らを赭圻に拠らせ、豫州刺史劉胡を鵲尾に駐屯させ、安北将軍の袁顗を遣わして全軍を統帥させた。明帝側の張興世が銭渓に拠って袁顗らの補給路を遮断した。8月、劉胡は銭渓を攻撃したが大敗し、劉胡が敗走したと聞くと、袁顗もまた南に逃れた。劉子勛と母の陳氏は、諸軍を率いて尋陽に入った沈攸之に殺害された[2]。遺体は尋陽南郊の廬山に葬られた。

出典

参考資料

  • 袁枢 著、柏楊 編(中国語繁体字)『鮮卑羨慕中華: 柏楊版通鑑紀事本末17』遠流出版、2000年。ISBN 978-9573240037。 

伝記資料

南朝の皇帝
  • 武帝(420-422)
  • 少帝(422-424)
  • 文帝(424-453)
  • (劉劭)(453)
  • 孝武帝(453-464)
  • 前廃帝(464-466)
  • (劉子勛)(466)
  • 明帝(466-472)
  • 後廃帝(472-477)
  • 順帝(477-479)
  • 武帝(502-549)
  • 蕭正徳(548-549)
  • 簡文帝(549-551)
  • 蕭棟(551)
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  • 敬帝(555)
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  • 蕭銑(618-621)
  • 武帝(557-559)
  • 文帝(559-566)
  • 廃帝(566-568)
  • 宣帝(569-582)
  • 後主(582-589)
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