大石智久

大石 智久 (おおいし ともひさ、1529年 - 1619年[要出典])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

宗義調の家臣。

略歴

龍造寺氏龍造寺周家に内通し、宗義調に反乱する。その後、柳川調信が反乱をとめる。その時、息子の大石豊後智則(おおいしぶんごとものり)が殺される。

また、智久が息子を殺したと考えられる。だが、その時智久は宗義調と戦っていたので可能性はひくいとされる。

その後、智久は宗家に戻り、文禄・慶長の役で活躍し、関ヶ原の戦いでは西軍についた。

そして、西軍が敗北したので島津義弘を頼ったが、島津忠恒に切り殺された。

関連項目

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