岩屋城

曖昧さ回避 この項目では、筑前国に存在した城について説明しています。
  • 淡路国に存在した城については「岩屋城 (淡路国)」をご覧ください。
  • 丹波国に存在した城については「岩屋城 (丹波国)」をご覧ください。
  • 大隅国に存在した城については「岩屋城 (大隅国)」をご覧ください。
  • 美作国に存在した城については「岩屋城 (美作国)」をご覧ください。
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岩屋城
福岡県
「嗚呼壮烈 岩屋城址」碑
「嗚呼壮烈 岩屋城址」碑
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 高橋鑑種
築城年 天文年間(1532年 - 1554年
主な城主 高橋氏
廃城年 天正14年(1586年
遺構 土塁、堀切
指定文化財 なし
位置 北緯33度31分33.4秒 東経130度31分13.06秒 / 北緯33.525944度 東経130.5202944度 / 33.525944; 130.5202944 (岩屋城)座標: 北緯33度31分33.4秒 東経130度31分13.06秒 / 北緯33.525944度 東経130.5202944度 / 33.525944; 130.5202944 (岩屋城)
地図
岩屋城の位置(福岡県内)
岩屋城
岩屋城
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岩屋城(いわやじょう)は、福岡県太宰府市浦城(筑前国御笠郡)にあった日本の城山城)。戦国時代末期の天正14年(1586年)、島津忠長率いる島津軍大友軍高橋紹運との壮絶な攻防戦(岩屋城の戦い)で知られる。

歴史

築城は天文年間(1532年 - 1554年)に大友氏の武将・高橋鑑種と伝えられ、立花城と共に大友家の筑前支配の拠点であった。しかし、高橋鑑種は主君・大友宗麟の傲慢な振る舞いに憤り、反旗を翻したために城を逐われ、大友家の宿老吉弘鑑理の二男鎮種が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種」と名乗り宝満・岩屋の両城主となった。

天正13年(1585年)、立花城主の立花道雪の死去後、長男統虎が道雪の養子として立花城主となり、次男の統増が高橋家の本城である宝満城に入城し、一族三人で大友家の筑前での拠点防衛に就く。

天正14年(1586年)7月13日、筑前一帯を平定し、関白秀吉の九州襲来を阻まんとする島津氏が総勢2万にも及ぶ大軍で攻め寄せ、大宰府政庁跡の東隣にある観世音寺に陣を設けた。紹運(高橋鎮種の出家後の名)は七百余名と共に篭城。2週間の間頑強に抵抗したものの、各出城や砦が次々と陥落、虚空蔵砦を守備する福田民部少輔も討死するに及んだ。また、城主紹運も自ら薙刀を取り敵中に入ったが力尽き、敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害。残された将兵もあとを追い玉砕、天正14年7月27日落城。

紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の歌は、「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」

城跡から道を隔てた南西側に高橋紹運の墓がある。

城の構造

四王寺山(標高410メートル)の中腹(標高291メートル)にある。現在は堀切や土塁が残る。

参考文献

  • 『福岡県の歴史散歩』山川出版社、1984年
  • 太宰府市 編『太宰府市史』
  • 森 弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
  • 筑紫豊『だいふまいり』西日本新聞社、1976年
  • 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6
  • 三村講介「大内氏の筑前国御笠郡代・岩屋城督 ─千手興国を中心に─」太宰府市市史資料室編集『年報太宰府学』第6号、太宰府市、2012年3月31日、pp.42-48

関連項目

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