歩兵第119連隊(ほへいだい119れんたい、歩兵第百十九聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
沿革
- 1937年(昭和12年)
- 8月30日、軍旗拝受、第108師団の隷下で華北に出動
- 10月、太源攻略戦などに参加、津浦線沿いに中国軍を追撃する。作戦終了後は山西省の警備や共産匪族の討伐戦を行う
- 1940年(昭和15年)
- 1月、帰還、復員
- 7月、動員下令
- 10月、編成完結、第52師団の隷下となる
- 12月4日、再び軍旗を拝受
- 1941年(昭和16年)10月、第52師団から第53師団に所属変更
- 1943年(昭和18年)、滋賀に移駐、南方作戦に備え訓練をする
- 1944年(昭和19年)
- 1月、大阪湾を出港しシンガポールに到着
- 2月、マラッカに駐屯
- 4月、内地の留守部隊と合流しビルマ戦のためマンダレーに向かう
- 6月4日、マンダレーに到着し第1大隊は第56師団増援として龍陵に派遣される、連隊主力はパッポクを確保し第18師団の収容にあたる
- 8月、インパール作戦中止後は連合国軍との間で激戦を繰り広げ、ピンウエ付近にて補給途絶でありながらも持久戦に持ち込む
- 1945年(昭和20年)
- 1月、盤作戦が開始、最初はマンダレーに所在したがシング方面の攻勢に対処するため北上を開始
- 1月23日、砲兵支援を受けつつクレ高地に対し夜間攻撃を開始、夜明け後は暴露状態のため後退
- 1月25日、奇襲を狙い、砲兵無しの夜襲を実施するも途中で停滞し失敗する
- 1月29日、歩兵第128連隊の増援を得て夜襲を実施するが、これも途中で停滞し失敗する。この間に龍陵に派遣されていた第1大隊が帰還する
- 2月8日、クレ高地の英印軍が攻撃を開始、夜襲で撃退を図るが物量差にはかなわず浅野連隊長は負傷、野中大隊長と共に戦車に体当たり攻撃し戦死する
- 3月、マンダレーに移動し第18師団の指揮下に入りメイクテーラの戦いに参加
- 4月23日、シッタン川を渡河し防御線を後退させる。その後シッタン作戦に参加
歴代連隊長
歴代の連隊長
(特記ない限り陸軍大佐) 代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
第一次 |
1 | 石田金蔵 | 1937.8.20 - 1938.9.14 | 戦死 |
2 | 谷口呉朗 | 1938.9.29 - | |
3 | 木村直樹 | 1939.5.19 - | 1939.12.20復員 |
第二次 |
1 | 浅野庫一 | 1940.10.15 - 1945.2.8 | 戦死 |
末 | 羽賀芳男 | 1945.2.19 - | |
参考文献
関連項目
外部リンク
- “ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~”. NHK 戦争証言アーカイブス. 日本放送協会 (2007年8月20日). 2016年9月7日閲覧。