諏訪忠林

 
凡例
諏訪忠林
時代 江戸時代中期
生誕 元禄16年8月12日(1703年9月22日
死没 明和7年5月27日(1770年6月20日
改名 万五郎(幼名)→忠林
別名 織部、修理(通称)、鵞湖(号)
戒名 養賢院殿聖懿諦範大居士
墓所 長野県諏訪市湯の脇の温泉寺
官位 従五位下伊勢守因幡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
信濃高島藩
氏族 諏訪氏
父母 父:諏訪頼篤、母:正木時清娘
養父:諏訪忠虎
兄弟 諏訪頼均室、忠林、盛恭、頼弼、江原寅親室
養兄弟:頼均、忠尋忠休於栄本多助有正室
正室:諏訪忠虎娘・雲台院
側室:金坂氏、山田氏
忠倫忠厚松平乗完正室、頼訓
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諏訪 忠林(すわ ただとき)は、江戸時代中期の大名信濃国高島藩5代藩主。官位従五位下伊勢守因幡守

生涯

この節の出典:[1]

高島藩分家で旗本の諏訪頼篤の次男として生まれた。

先代藩主の諏訪忠虎の実子である忠尋が早世したため、享保6年(1721年)4月11日に忠虎の婿養子・養嗣子となった。同年12月18日に従五位下伊勢守に叙任された。

享保16年(1731年)、忠虎の死去により跡を継ぎ、因幡守に叙任されたが、生来から病弱だったため藩政から逃避して学問の世界にのめり込んだ。しかし学者、特に詩人としては一級者であり、太宰春台や釈万庵らもその才能を認めたという。享保18年(1733年)には領内を地図(『諏訪藩主手元絵図』)に描かせており、後世に貴重な資料となっている。元文二年(1737年)、高島城三の丸に八詠楼を建て、詩作の友人らと度々遊んでいる。

一方で藩財政は危急の事態となっており、宝暦六年に家老の千野貞亮を操廻方に任じて財政再建を担当させ始めた。これが次代の「二の丸騒動」の遠因となった。

宝暦13年(1763年)8月23日、四男の忠厚に家督を譲って隠居し、明和7年(1770年)5月27日に68歳で死去した。

系譜

父母

  • 諏訪頼篤(実父) - 分家旗本。江戸北町奉行。頼篤の家は婿養子が継いだ。
  • 正木時清の娘(実母)
  • 諏訪忠虎(養父)

正室

側室

  • 金坂氏
  • 山田氏

子女

  • 諏訪忠倫(長男) - 生母は雲台院(正室)
  • 丈之助(次男) - 生母は金坂氏。早世。
  • 鐡次郎(三男) - 生母は金坂氏。早世。
  • 諏訪忠厚(四男) - 生母は金坂氏
  • 諏訪頼訓(五男) - 母は山田氏。
  • 娘 - 三河国西尾藩主松平乗完正室。母は山田氏。

脚注

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  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『諏訪忠林』 - コトバンク
上諏訪梶の葉紋諏訪氏大祝・当主(1731年 - 1763年)

有員 - (13代略) - 有信 - 頼信 - 為信 - 為仲 - 為継 - 為次 - 為貞 - 敦貞 - 貞方 - 貞光 - 敦光 - 敦忠 - 敦信 - 信重 - 信時 - 盛信 - 盛重 - 宗経 - 頼重(照雲) - 時継 - 頼継 - 信継 - 直頼 - 信有 - 有継 - 頼満(伊予守) - 信満 - 政満 - 頼満(安芸守) - 頼隆 - 頼重 - (勝頼) - 頼豊 - 頼忠 -

藩主諏訪家)頼忠 - 頼水 - 忠恒 - 忠晴 - 忠虎 - 忠林 - 忠厚 - 忠粛 - 忠恕 - 忠誠 - 忠礼 - 忠誠(再襲) - 忠元 - 忠弘 - 忠則 -

(大祝諏訪家)頼忠 - 頼広 - 頼寛 - 頼隆 - 頼基 - 頼超 - 頼央 - 頼紀 - 頼隈 - 頼本 - 頼啓 - 頼壽 - 頼武 - 頼固 - 頼宣 -

諏訪家諏訪藩5代藩主 (1731年 - 1763年)
日根野家
諏訪家