金子吉延

曖昧さ回避 声優の「金子幸伸」とは別人です。
かねこ よしのぶ
金子 吉延
生年月日 (1955-06-28) 1955年6月28日(68歳)
出生地 日本の旗 日本 東京都板橋区
職業 俳優
公式サイト 金子吉延オフィシャルサイト だいじょ~ぶ!!
主な作品

映画
『大忍術映画 ワタリ』


テレビドラマ
仮面の忍者 赤影』『河童の三平 妖怪大作戦
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金子 吉延(かねこ よしのぶ[1]1955年[1]6月28日 - )は、日本の元子役俳優。1960年代から70年代に活躍した。東京都[1]板橋区[要出典]出身。

同時代にやはり子役として活躍した金子光伸とは血縁関係はないが、名前が似ているため兄弟・親戚に間違えられることがあったといい「お兄さんにもよろしく」といったファンレターが来たこともあったという[2]。本人は「一度だけしか会ったことがないです」と語っている。

来歴

『赤影』前

1959年に劇団あすなろへ入団[1]小児喘息で自宅にこもり気味だったため、母親に劇団に入れられたことが、子役になったきっかけとなる[3][4][1]

本人が記憶しているテレビドラマで最古の作品は、NHK東京の文芸劇場『下町』[注釈 1]。12時から朝の4時まで収録のため拘束され、布団で寝ているシーンで本当に眠ってしまったという[3]。10歳の時に『宮本武蔵 巌流島の決斗』(内田吐夢監督)で、初めて東映京都と関わる。三沢伊織役を探していた内田監督が『宮本武蔵 巌流島の決斗』の前年に上演された劇団文化座公演『土』(原作:長塚節)に出演した金子を見染め、各劇団を訪ねて探し回った末に指名してきたという。京都での撮影だったが当時は新幹線は無く、飛行機で往復していた[5]

複数の資料では、『青島要塞爆撃命令』(1963年、東宝)に男の子役で出演したと記述しているが[6][7]、本人はこれを否定している[1]

1966年、『丹下左膳 飛燕居合斬り』で再び京都詰めとなる[5]。この年、自身もファンであった白土三平の劇画『ワタリ』が東映京都で『大忍術映画 ワタリ』(船床定男監督)として映画化されると聞き、企画室に日参して出演売り込みを行った[8][4]。脇役希望だったが、主演に選ばれ当惑したという[9][4][1]。撮影は3ヶ月におよんだため、撮影中は母親とともに東映の女子寮に入寮していたが[10][4]、『ワタリ』『赤影』で共演する岡田千代も、『ワタリ』の撮影当時は入寮していた[10]

『仮面の忍者 赤影』

『ワタリ』の演技が認められ、1967年放送の特撮テレビドラマ『仮面の忍者 赤影』(関西テレビ、東映)に少年忍者「青影」役で出演し人気を得る[1]

青影の長髪は当初カツラだったが、中途から地毛になった。一年間散髪しなかったという[11]

同作のヒットで「子役スター」と呼ばれたが、放映中に街で声をかけられることもなく、本人には自覚はまったく無かったという[11]

5年の三学期から6年の二学期末までは、京都の御室仁和寺直近の京都市立御室小学校に転入して撮影に挑んだが、学校にまったく通えず、先生に会ったこともなかったという。成績表は「オール1」となったため、2学期から朝の一時間だけ出席することとなった[12]。京都の植木屋の別荘を借りて住んでおり、その前には俳優松方弘樹の自宅があった[9]

怪獣路線への変更については子供心に納得できなかったという[4]

共演した坂口祐三郎は、子供嫌いで当初は冷たかったが、だんだんと打ち解けていったという[4]。引退後も交流は続き[13]、坂口は上京時には飲みに誘ってくれたという。坂口は『赤影』での金子について、「撮影で走った後、『赤影さん、僕の人生暗いなあ。小児喘息だからあまり走ったりすると、心臓を悪くして長生き出来ないよ』なんて、小学5年生の子供がボソボソいうんだよ」と、当時の思い出を語っている[注釈 2]

『ワタリ』『赤影』『河童の三平』などで共演した牧冬吉は、金子本人に述べることはなかったがプライベートでは金子のことを褒めちぎっており、金子は牧の没後に牧の息子から「嫉妬していた」と言われたという[4]

端役で出演し、当時は無名だった川谷拓三に、自転車で撮影所を乗せて回らせてもらっていた。後年、川谷がテレビドラマ『前略おふくろ様』のオープニングで単独クレジットされていた時は嬉しかったという[10]

金子は1993年頃から、その後の『赤影』を描いた映像作品を撮ろうと企画していたが、坂口の死去により実現しなかった。

『赤影』後

東京に戻り無事中学校へ進学するが、『河童の三平 妖怪大作戦』(NET、東映)の主演が決まってまた通えなくなった。『ガメラ対大悪獣ギロン』の主演オファーは通学のため断り、きわどい成績だったがなんとか卒業できたという[11]。この間、台湾での『大忍術映画 ワタリ』の大ヒットを受けて台湾映画界から招かれ、湯慕華(日本名・湯浅浪男)監督のもと、特撮冒険映画『神童桃太郎』、『桃太郎斬七妖』に主演する[14]

高校受験での面接では、面接官から「君が青影丸か」と問われ、「丸はつきません」と答えたという[15]。入学後は日舞を習い、高校2年までは毎日通学する[2]。『赤影』『河童の三平』のプロデューサーだった東映の平山亨プロデューサーを、日舞の発表会に招いたことがきっかけとなり、1973年のテレビドラマ『どっこい大作』(NET、東映)の主人公・田力大作役に抜擢される[2]。番組が延長されたために通学できなくなり、一時は退学となるが、当時の担任の尽力により復学・卒業できた[2]

23歳で、本業としては俳優を引退する[4]。その後は空調関係の会社を経営する傍ら、各種催事や企画ビデオ作品に出演している。

仮面ライダー』などで知られる俳優の佐々木剛が経営する居酒屋「バッタもん」の常連客であり、インタビューや自身のホームページのオフ会などもこの店で行われている[4][16]

出演

映画

テレビドラマ

オリジナルビデオ

その他

  • 飲酒運転・悲劇の連環(2007年、東映教育映像部) - 刑事

脚注

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注釈

  1. ^ 別のインタビューでは、『地の涯に生きるもの』と述べている[1]
  2. ^ 坂口は1988年のインタビューでは、金子について「生意気な子役だった」と述べている[13]
  3. ^ a b ノンクレジット。
  4. ^ 出演場面カット。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l キンゴジコンプリーション 2021, p. 86, 「キャストインタビュー 金子吉延」
  2. ^ a b c d 扶桑社 1998, p. 87.
  3. ^ a b 扶桑社 1998, p. 77.
  4. ^ a b c d e f g h i 石橋春海「ヒーローを探して 金子吉延インタビュー」『’60年代 蘇る昭和特撮ヒーロー』コスミック出版〈COSMIC MOOK〉、2013年12月5日、108-110頁。ISBN 978-4-7747-5853-4。 
  5. ^ a b 扶桑社 1998, p. 78.
  6. ^ “映画資料室”. viewer.kintoneapp.com. 2022年2月19日閲覧。
  7. ^ 東宝特撮映画全史 1983, pp. 536–537, 「主要特撮作品配役リスト」
  8. ^ 扶桑社 1998, pp. 78–80.
  9. ^ a b 扶桑社 1998, p. 80.
  10. ^ a b c 扶桑社 1998, p. 84.
  11. ^ a b c 扶桑社 1998, p. 86.
  12. ^ 扶桑社 1998, pp. 80–81.
  13. ^ a b テレビマガジン特別編集・特撮ヒーロー大全集』講談社、1988年12月30日、178頁。ISBN 4-06-178411-0。C8774。 
  14. ^ 樋口尚文『「月光仮面」を創った男たち』平凡社〈平凡社新書〉、2008年9月16日、127頁。ISBN 978-458-285435-0。 
  15. ^ 扶桑社 1998, pp. 86–87.
  16. ^ 金子吉延 (2013年10月21日). “金子吉延オフィシャルサイト だいじょ~ぶ!!”. 2014年4月24日閲覧。
  17. ^ GTOM vol.03 2023, pp. 14–17, 「Withessing 彌次喜多×視聴率の奴隷、世紀の大事件でかく戦えり!!」.
  18. ^ 『非公認戦隊アキバレンジャー』 ショッカーO野の戦闘報告 2011年4月20日

参考文献

  • 『テレビジョンドラマ別冊号 仮面の忍者赤影』(有限会社放送映画出版)
  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5。 
  • 坂口祐三郎と赤影支援会『赤影参上!』扶桑社、1998年7月20日。ISBN 4-594-02517-X。 
  • 『キングコング対ゴジラコンプリーション』ホビージャパン、2021年9月24日。ISBN 978-4-7986-2566-9。 
  • 講談社 編『ゴジラ&東宝特撮 OFFICIAL MOOK』 vol.03《キングコング対ゴジラ》、講談社〈講談社シリーズMOOK〉、2023年4月25日。ISBN 978-4-06-531435-7。 

外部リンク

  • 金子吉延オフィシャルサイト だいじょ~ぶ!!
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