陸羽

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西安大雁塔にある陸羽の像

陸 羽(りく う、733年 - 804年)は、中国唐代の文筆家。の知識をまとめた『茶経』3巻などを著述した。またの名を疾、(あざな)は鴻漸(こうぜん)、季疵、号は桑苧翁と称した(他からは竟陵子と呼ばれた)。他の著作に『毀茶論』、『君臣契』、『源解』、『陸文学自伝』(『茶経』以外は散逸)がある。

近代日本思想家岡倉覚三(天心)はその著書『茶の本』の中で陸羽を「茶道の鼻祖」と評した[1]

出自

春木南溟筆 陸羽像(部分) 天保12年

陸羽は捨て子であった可能性が高く出自は不明である[2]。そのため、確実ではないが生年733年、出身地を竟陵(きょうりょう)(現在の湖北省天門市)とする通説が知られている[2]

陸羽の姓「」については彼を拾った僧侶の俗姓をもらい陸とした、又はの卦(け)にしたがって名付けた、などの説が伝えられている[2]

経歴

捨て子として3歳くらいの時に浜で竟陵龍蓋寺の智積禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に吃音があったが、雄弁であったという。

幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。

逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。天宝年間に、竟陵の長官の李斉物(りせいぶつ)(zh)の目に止まり、書を教えられ学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔(さいこくほ)(zh)とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。

756年(至徳元載)、安禄山の乱を避けようと北方の知識人たちは、江南地方へ逃れた。陸羽も760年(上元元年)の頃、湖州の苕渓に避難。庵(いおり)をつくって隠居し、桑苧翁と号し著書を書き出した。僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ、10年後に780年(建中元年)に補足をつけた『茶経』3巻を著す。

大暦年間に、湖州刺史として赴任してきた顔真卿(がんしんけい)のもとで、『韻海鏡源(いんかいきょうげん)』の編纂に加わった。御史大夫の李季卿に冷遇され、『毀茶論』を著したこともある。

伝記資料

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
陸羽
  • 新唐書』巻百九十六 列伝第百二十一隠逸[3]「陸羽伝」

日本語訳

  • 『茶経 付喫茶養生記』林左馬衛・安居香山 訳注、明徳出版社「中国古典新書」、1984年
  • 『茶経詳解 原文・校異・訳文・注解』布目潮渢 訳注、淡交社、2001年

脚注

  1. ^ 岡倉覚三 村岡博訳 茶の本 - 青空文庫
  2. ^ a b c 井波律子(編集)「中国史重要人物101 2005年 新書館 ISBN 4403250203
  3. ^ ウィキソース出典 欧陽脩、宋祁 (中国語), 新唐書/卷196, ウィキソースより閲覧。 

参考文献

  • 陳舜臣『茶の話 茶事遍路』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1992年、ISBN 978-4022607058
  • 成田重行『茶聖陸羽 茶経を著した偉人の生涯』 淡交社、1998年、ISBN 978-4473016249
  • 『中国の茶書』 布目潮渢・中村喬編訳、平凡社東洋文庫、1983年、ISBN 978-4582802894
  • 熊倉功夫・程啓坤編『陸羽「茶経」の研究』「世界茶文化学術研究叢書I」宮帯出版社、2012年、ISBN 978-4-86366-861-4

外部リンク

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  • 陸羽と茶経
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