1567年
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 15世紀 - 16世紀 - 17世紀 |
十年紀: | 1540年代 1550年代 1560年代 1570年代 1580年代 |
年: | 1564年 1565年 1566年 1567年 1568年 1569年 1570年 |
1567年(1567 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
カレンダー
- 1567年のカレンダー(ユリウス暦)
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できごと
日本
- 2月8日(永禄9年12月29日) - 松平家康、徳川姓を朝廷から許され徳川家康と改名。従五位下三河守の官位を授与される。
- 11月10日(永禄10年10月10日) - 松永久秀と三好三人衆の権力闘争で、大和東大寺の大仏殿が焼失。
- 11月19日(永禄10年10月19日) - 武田義信、甲斐東光寺で病死[1][2][3][4]
誕生
「Category:1567年生」も参照
- 6月19日 - フランシスコ・サレジオ、カトリック教会の聖人(+ 1622年)
- 9月5日(永禄10年8月3日) - 伊達政宗、陸奥仙台藩の初代藩主(+ 1636年)
- 9月20日(永禄10年8月18日) - 立花宗茂、筑後柳川藩初代藩主 (+ 1643年)
- 有馬晴信、キリシタン大名(+ 1612年)
- 真田信繁、戦国武将(+ 1615年)
- 須田満胤、戦国武将(+ 没年不詳)
- 小早川秀包、戦国武将(+ 1601年)
- 菅正利、戦国武将(+ 1625年)
- 戸川達安、戦国武将(+ 1628年)
- 成瀬正成、戦国武将(+ 1625年)
- 塙直之、戦国武将(+ 1615年)
- 御宿政友、戦国武将(+ 1615年)
死去
「Category:1567年没」も参照
脚注
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出典
- ^ 平山優氏「切腹だったのか、病死だったのか、これまで二説に分かれていましたが、このほど大河ドラマ『真田丸』でも時代考証を担当されていた黒田基樹氏により新史料が発掘されまして病死だという事が明らかになりました」 NHK大河ドラマ「どうする家康」コラム 大河と歴史の裏話『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』2023年6月25日
- ^ 『「時代を駆け抜けた戦国武将たち~武田信玄の新研究・義信事件を考える」講師は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当された駿河台大学教授の黒田基樹先生。重要史料によれば、義信は病死であった。これにより事件の背景や事件への信玄の処置についての理解は、大きく考え直さなければならない。事件について新たな見解を提示し、真実に迫る。』武田信玄の新研究【NHKカルチャーオンデマンド講座】2022年4月22日
- ^ 「永禄10年というと、甲斐国の武田信玄の嫡男・義信が病死した年でもありました。」【豊臣秀頼が出馬していれば家康を打ち取れたかもしれない家康に切腹を覚悟させた真田信繁のツワモノぶり…大坂夏の陣で家康本陣を切り崩したラストサムライの最期】 2023.12.04 濱田浩一郎
- ^ 「永禄10年(1567年)に病死。」【徳川家康が「武田信玄」に心開かなかった複雑事情】 2023/02/26 濱田浩一郎
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、1567年に関連するカテゴリがあります。