張既

張既

涼州刺史・西郷侯
出生 生年不詳
司隸左馮翊高陵県
死去 223年黄初4年)
拼音 Zhāng Jì
徳容
諡号 粛侯
主君 曹操曹丕
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張 既(ちょう き、? - 223年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。字は徳容司隸左馮翊高陵県の人。子は張緝・張翁帰。孫は張藐・張皇后。『三国志』魏志に伝がある。また裴松之によると、『魏略』においての伝は、徐福厳幹・李義・游楚梁習趙儼裴潜・韓宣・黄朗と同じ伝に収録されていたという(『三国志』魏志「裴潜伝」注)。

生涯

容姿と動作が優れ、文章作成が上手だった(『魏略』)。

郡の功曹であった游殷は、幼少の張既を評価し方官の器だと評した。また家に招いて賓客として待遇し、宴席が終わると子の游楚の将来を頼んだという(『三輔決録注』)。

16歳で郡の小役人になった。功曹の徐英に自ら30回ほど鞭打たれた事もあったという(『魏略』)。

後に郡の高官を歴任し、孝廉に推挙されたが出仕しなかった。さらにその後、司空となった曹操から司空府に招かれたが、赴かない内に茂才となり、新豊県令に任命された。その治績は三輔第一であったという。

建安7年(202年)、袁尚は曹操の侵攻に黎陽で抵抗する一方で、郭援高幹それに匈奴を使って平陽を攻撃させ、さらに関中の将軍達に使者を送り味方に取り込もうとした。張既は、曹操により司隷校尉として派遣されていた鍾繇の命令で、関中の有力者の馬騰らの説得に当たった。馬騰は説得に応じ、子の馬超に1万ほどの兵士を率いさせ、曹操への援軍とした。鍾繇はその兵力を用いて郭援を斬り、高幹と匈奴を降伏させる事ができた。

建安10年(205年)、高幹が再び反乱を起こした。河内の張晟が1万の軍勢を率いて崤底の一帯を荒らし廻ると、衛固・張琰がこれらの動きに呼応した。曹操は張既を議郎に任命し、鍾繇の軍事に参画させた。張既は馬騰らを再び呼び寄せ、その軍勢により張晟を破り、衛固・張琰を斬首した。また翌年に、高幹を荊州へ逃亡させた。張既はこの功績で武始亭侯に封じられた。

建安13年(208年)、袁氏を滅ぼした曹操は荊州の征討を考えたが、関中に割拠する馬騰の動静が気がかりであった。張既は曹操から馬騰への使者として派遣され、馬騰に対し軍勢を解散させ帰郷すべしとする曹操の命令を伝えた。しかし、馬騰が帰郷をなかなか実行しなかったため、張既は変事が起きることを心配して、諸県に兵糧を蓄えさせる一方で、郡太守達に郊外まで出迎えに行かせた。馬騰は子の馬超に軍勢を預けて已む無く東に向かい、朝廷に帰順した。曹操は上奏して馬騰を衛尉とし、馬超を将軍とした。

建安16年(211年)、馬超や関中の豪族が曹操に対して反乱を起こすと、曹操に従い華陰において馬超を討伐し(潼関の戦い)、西方に進んで関北を平定した。その功績により京兆尹に任じられた。張既は流民を集めて落ち着かせ、県や邑を復興した。

後漢の藩国として魏国が成立すると尚書になり、間もなく地方に出て故郷でもある雍州刺史となった。張魯討伐では別に軍を率いて族を討伐し、麦を収穫して兵糧とした。張魯が降伏すると、漢中の数万戸を移住させて、長安や三輔の人口を補うよう曹操に進言した。

建安23年(218年)、曹洪と共に下弁に向かい、劉備軍の呉蘭を撃退した。また夏侯淵に従って宋建討伐をした時は、別軍を率いて臨洮や狄道を攻撃し功績を挙げた。

以前、曹操が移民により河北の人口を補った事があったため、隴西天水南安の3郡は動揺していた。張既は3郡出身の官吏や将校に暇を与え、住家を修理させて水碓を支給した。このため民心は安定したという。

曹操は漢中からの撤兵を考えたが、劉備が武都の氐族を味方につけて、関中に圧力をかけてくる事を心配し、張既にどうすれば良いか質問した。張既は「氐族を北方に移住させ、劉備から避けさせれば良いでしょう」と答えた。曹操はこれに従い張既に命じて、武都の5万人の氐族の部落を扶風・天水に住まわせた。

西域の武威張掖酒泉西平の4郡にはそれぞれ有力者が割拠し、自立状態を保っていた。ある時、武威の顔俊が曹操に対し母を人質に送り、帰順と援助を申し出てきた。張既は彼らの内紛を待つべきだと進言した。間もなく、顔俊が張掖の和鸞に殺害され、張掖と武威の有力者同士の抗争が始まった。

建安25年(220年)に曹丕(文帝)が王位に就き、涼州が再び設置されると、安定太守の鄒岐を刺史に当てたが、4郡の有力者達はそれに従おうとせず、任命された郡太守を追放したり捕虜にしたりした。張既は蘇則に協力し、功績を立てさせた。都郷侯に封じられた。

涼州で伊健妓妾・治元多らの反乱が起きると、曹丕は「張既でなければ異民族で乱れる涼州は治められぬ」と言い、張既を涼州刺史に任命し彼等を討伐させた。張既はその期待に応え、伊健妓妾・治元多らを討伐した。後詰として夏侯儒費曜も派遣されていたが、張既は彼等の到着も待たず進軍し、金城から黄河を渡り、反乱軍の裏をかいて武威に到着した。しかし、武威で費曜とだけ合流した張既の軍は疲弊しており、また兵糧が不足していたため、顕美で反乱軍との決戦に及んだ。参軍の成公英を使い、反乱軍を罠にかけ伏兵を用いたため、大勝することができたという。その功績により西郷侯に封じられ、2百戸の食邑を加増された。以前と合わせて4百戸となった。

その後、酒泉の蘇衡が族と結んで反乱を起こすと、張既は夏侯儒とともにこれを攻撃し降伏させた。また、西光の麴光も羌族と結び反乱を起こし、郡太守を殺害したが、張既が布告を出し内紛を誘ったところ、まもなく麴光は仲間に殺害された。

雍州・涼州を十数年もの間よく治めたため、張既の統治の評判は非常に良かった。

以前の上司であった徐英とは仲良くする事はできなかったが、張既は以前の恨みを棄てて付き合いを持とうと努めたため、高貴な身分となった張既に謙らなかった徐英と共に、その態度を讃えられたという(『魏略』)。

かつての游殷の子である游楚を採り立て、漢興太守とした(『三輔決録注』)。游楚は後に隴西太守となり、諸葛亮北伐に西域の郡太守の中で唯一抵抗した(『魏略』)。

龐延・胡遵楊阜龐淯・張恭・周生烈などを推挙している。毌丘興(毌丘倹の父)の功績を評価した事もある(「毌丘倹伝」が引く『魏名臣奏』)。

黄初4年(223年)に死去した。跡は子の張緝が継いだ。また、少子の張翁帰は関内侯に封じられた。曹叡(明帝)の時代に粛侯の諡が追贈された。

陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝