衛覬

衛 覬(えい き、建寧元年(168年) - 太和3年(229年[1])は、中国後漢末期から三国時代の政治家・学者・文化人。伯覦または伯儒[2]司隷河東郡安邑県(山西省夏県)の人。曽祖父は衛暠[3]。子は衛瓘・衛寔。孫は衛恒。曾孫は衛玠。

生涯

若くして頭角を現し曹操に登用され、司空掾属・茂陵県令を経て、尚書郎となる。曹操は袁紹と対立すると、荊州劉表が気がかりであったため、益州劉璋に使者を送り牽制させようとし、その使者に衛覬を選んだ。治書侍御史に任命された衛覬は、長安まで来たところで益州への道が途絶していることを知り、そのまま関中に留まった。

関中の荒廃を見て、荀彧に手紙を送り復興を提言し、曹操の了承を得て整備に尽力した。また民力の充実を第一に考えた衛覬は、軍事的安定の確立を優先する鍾繇のやり方が、関中の諸将の疑惑を招く危険を警告した。後に潼関の戦いにおける曹操軍の戦死者が5桁にのぼったことから、曹操は衛覬の策を取らなかったことを深く悔い、いっそう尊重するようになったという。

中央に召還され尚書となった後、建安18年(213年)11月、王粲杜襲和洽と共に、藩国として建国された魏の侍中となる[4]。朝廷の古い慣例に詳しいという才を買われ、王粲と共に魏国体制の基礎を築く作業を行った。

建安25年(220年)、曹操が没し曹丕が王位につくと、尚書を経て漢の侍郎となり[5]、魏への禅譲の道を開く作業に尽力し、功績があった。曹丕(文帝)が帝位につくと再び尚書となり、陽吉亭侯に取り立てられた。

黄初7年(226年)に曹叡(明帝)が帝位についた後、閿郷侯となり、領邑300戸に昇進した。法律の博士を設置し法を末端まで行き届かせることや、曹叡の奢侈を諌める上奏を行った。

太和3年(229年)に没し[1]、敬侯と諡された。子の衛瓘が爵位を継いだ。

『魏官儀』など著作を多く残し、西晋の時代には文筆家として著名を馳せた。書体にも精通していたため、後世の書道の世界にも高名を残している。『魏書』の編纂にも参画したという[6]

出典

  • 陳寿『三国志』巻21 魏書 衛覬伝

脚注

  1. ^ a b 房玄齢等の『晋書』衛瓘伝によると、子の衛瓘(220年生)が10歳の時に死去。張懐瓘『書断』によると享年は62[1]。
  2. ^ 『華芳墓誌』では伯覦、『三国志』衛覬伝では伯儒とする。
  3. ^ 『晋書』衛瓘伝より。衛暠は後漢の明帝の時代、儒学により代郡から徴召されたが、安邑県まで来たところで没した。子孫はその地を賜って居住し、衛暠を葬ったという。
  4. ^ 『三国志』魏書武帝紀の注に引く『魏氏春秋』。
  5. ^ 『三国志』魏書文帝紀注の『献帝伝』が引用する、献帝の禅譲の詔勅では、守尚書令侍中としてその名が見える。献帝の使者として、曹丕に受禅を促す役目を負った。
  6. ^ 劉知幾史通』古今正史篇
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝