王基

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王基

征南将軍・都督・安楽郷侯
出生 初平元年(190年
青州東萊郡曲城県
死去 景元2年4月24日(261年6月9日
拼音 Wáng Jī
伯輿
廟号 景侯
主君 曹操曹丕曹叡曹芳曹髦曹奐
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王 基(おう き、190年 - 261年6月9日)は、中国三国時代の魏の武将、学者。伯輿。父は王豹。子は王徽。叔父は王翁。従兄弟は王喬。青州東萊郡曲城県の人。

生涯

若くして孤児となり、叔父と暮らした。叔父は王基を可愛がり、王基も孝行に励んだため賞賛された。17歳で郡に召し出されたが、好みに合わなかったので、職を離れ、学問に励んだ。黄初年間、孝廉へ推挙され、郎中に任命された。刺史王淩に見出され、王淩の上奏により州の別駕となった。王淩は善政を敷いたことで名声を博したが、王基の助言によるところも大きかった。才能に秀でており、王朗は王基を中央に呼び出すことを望んだが、王淩に阻止された。やがて司馬懿からもその才を認められ、王基は招聘に応じ中書侍郎となった。中央においては曹叡(明帝)の宮殿造営に対し、故事を引いた上奏文を提出して諫言したり、また、儒学者として鄭玄説の妥当性をめぐり、王粛と幾度か論争した。

安平太守に昇進したが、事件のため官を去った(安平太守時代に管輅と知り合っている(魏志「方技伝」))。その後、今度は曹爽の招聘を受け、従事中郎となり、呉との国境周辺である安豊太守に任命された。善政を敷き、呉に侵犯の機会を与えなかったという。また、呉の軍事行動について諸葛誕から助言を求められ、諸葛誕をよく補佐した。

曹爽が専横を極めるようになると、『時要論』を著し批判した。まもなく病気により免職となった。河南尹に任命されそうになったが、曹爽が失脚するとかつて曹爽の属官であったことから、就任が見送りとなった。しかし、その年のうちに復帰し尚書となり、地方に出て荊州刺史・揚烈将軍となった。

250年、王昶を中心とする呉征伐に、州泰と共に別将として参加し、夷陵において呉の歩協を攻撃した。しかし、歩協は城門を閉ざし戦おうとしなかった。王基は歩協を牽制しつつ、別働隊を編成して兵糧庫を襲撃し、30万石の兵糧を奪った。また、安北将軍の譚正を捕虜とし数千人を降伏させ、夷陵県を設置し降伏者に入植させた。この功績により関内侯となった。次に上昶の地に江夏の役所を移し、夏口を牽制させたため、呉は長江を超えて侵攻することが難しくなった。王基は軍隊と農業を整備するとともに、学校を設けるなど治績も挙げたため、南方で名声を得ることになった。朝廷が王基に対し呉征伐の続行を具申したが、王基は状勢を具体的に分析した上で時期尚早であると進言し、呉征伐を見送らせた。その後、司馬師が政権を握ると、書状を送り政治家としての心得を伝授したため、司馬師もこれを受け入れている。州泰・鄧艾・石苞と共に州郡を治める諸将の一人として名が挙がっている(『晋書』「景帝紀」)。曹髦(高貴郷公)の時代には常楽亭侯となった。

255年毌丘倹文欽が反乱を起こした時には行監軍・仮節となり、許昌の軍を統率した。また、司馬師に軍の先頭を任された。王基は諸将の反対を押し切り、食糧が豊富に蓄えられていた南頓の奪取を主張し、毌丘倹に先んじて占領することに成功した。このため毌丘倹は項城に立て籠もり、鄧艾に対応するため楽嘉に文欽を派遣することになった。しかし王基は戦力が二分された隙を見逃さず、項城を攻撃し毌丘倹を降した(毌丘倹・文欽の乱)。この功績で鎮南将軍・都督豫州諸軍事となり、豫州刺史を兼任した。安楽郷侯の爵位を得たが、王基は上奏して、養育に恩のあった叔父の子(王喬)に関内侯と所領の一部を与えることを要請し、認められた。

257年、諸葛誕の反乱が起きる(諸葛誕の乱)と、鎮東将軍・都督揚豫諸軍事を兼務した。諸葛誕が精兵を率いており、また呉の朱異も援軍として来襲していたため、軍を安全な場所に移動させるべきという意見が多かった。司馬昭もそれに賛同し命令を下したが、王基は寿春の包囲陣を堅守することを主張し、司馬昭にこれを認めさせた。司馬昭は王基の部署内において、自身の軍吏に自由な行動をさせることも許さなかった。寿春が陥落した後、司馬昭は王基に書簡を送り、その判断の正しさを賞賛した。司馬昭が勝利に乗じ呉への侵攻を企てたが、王基は諸葛恪姜維の失敗を例に挙げ、反対した。司馬昭はその言葉を聞き入れ、呉征伐を中止した。王基は征東将軍・都督揚州諸軍事となり、東武侯に任命された。しかし王基は部下に功績を譲ったため、部下の長史と司馬の七名が侯に採り立てられた。

258年に母が死去したが、朝廷は王基にすぐ知らせず、亡父に北海太守を追贈し、洛陽に改葬した上で母と合葬させた。259年には征南将軍・都督荊州諸軍事となり、新野に駐屯した(『晋書』「文帝紀」)。261年、呉の鄧由が投降してきたと襄陽太守(司馬彪の『戦略』によると胡烈)から報告があったが、それを偽の投降であると見抜くなど、晩年までその知略は衰えなかった。

死後、それまでの功績を高く評価され、景侯とされた。また、司空の追贈を受けた。墓は河南省に存在する。

陳寿は、学問と品行の面で王基を高く評価している。

陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝